【歴代 お札(紙幣)の人物一覧】何した人?簡単にご紹介!

わしたちの身近にある お札ですが、2024年に新しくなることになりましたね。

お札の人物の名前を聞いても、実際に何をした人かはよく知らないかも・・・。
そこで今回は、歴代のお札の人物を一覧にし、その一人一人が何をしたのか簡単にまとめてみました。
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歴代 お札(紙幣)の人物一覧

登場年 人物 お札の種類
2024年 渋沢栄一 日本銀行10000円券
2024年 津田梅子 日本銀行5000円券
2024年 北里柴三郎 日本銀行1000円券
2004年 樋口一葉 日本銀行5000円券
2004年 野口英世 日本銀行1000円券
2000年 紫式部 日本銀行2000円券
1984年 福沢諭吉 日本銀行10000円券
1984年 新渡戸稲造 日本銀行5000円券
1984年 夏目漱石 日本銀行1000円券
1963年 伊藤博文 日本銀行1000円券
1951年 岩倉具視 日本銀行500円券
1951年 高橋是清 日本銀行券50円券
1948年 板垣退助 50銭政府紙幣
日本銀行券100円券
1946年 二宮尊徳 日本銀行券1円券
1945年 日本武尊 兌換券1000円券
1930年 聖徳太子 兌換券100円券
日本銀行券100円、1000円、5000円、10000円券
1891年 藤原鎌足 改造兌換銀券100円券
兌換券100円券
日本銀行券20円券
兌換券200円券
1890年 和気清麿呂 改造兌換銀券10円券
兌換券10円券
日本銀行券10円券
1889年 武内宿禰 改造兌換銀券1円券
兌換券5円券
日本銀行券5円券
兌換券200円券
1888年 菅原道真 改造兌換銀券5円券
兌換券5円、20円券
日本銀行券5円、35円券
1881年 神功皇后 改造紙幣1円、5円、10円券
お札が変わるタイミングはバラバラなんだね。
規定はないんだけど20年位で変わっている印象はあるね。2024年にお札が一新されるのは、天皇が変わり、新年号になったことやオリンピックの自国開催が影響してると言われているよ。
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お札の人物は一体なにをした人?

日本では、お札の肖像画になった人は21人存在することが分かりましたが、ここからは一人一人が、一体なにをしてきたのか簡単にまとめてみました。

渋沢栄一(発行:2024年)

銀行を設立したことでも有名な渋沢栄一は「お金」と深いかかわりがある人物です。

徳川慶喜の幕臣だった渋沢栄一は、フランスで近代的な産業を視察し帰国後は、日本ではじめての株式会社とも呼ばれる「商法会所」を設立します。

その後、大隈重信の頼みで明治新政府の官僚となり500以上の会社設立に尽力します。

ちなみにBank=銀行と日本語に訳したのも渋沢なんですよ。

さらに東京株式取引所や東京手形交換所を創設するなど、日本の経済界に多大な影響を与えたとして、渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれています。

経済の面だけでなく、孤児院を設立するなど社会福祉にも貢献し、携わった施設は600以上にのぼります。

また日本とアメリカの関係を良好に築くためにも力を貸した偉大な人物であり、ノーベル平和賞の候補に二度も選ばれました。

渋沢栄一は、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」のモデルに選ばれ、俳優の吉沢亮さんが演じることが決定しています。

新紙幣や大河ドラマへの起用により、これから最も注目される歴史上の人物となりそうです。

津田梅子(発行:2024年)

女子英学塾(のちの津田義塾大学)を創設した津田梅子。

2024年からは五千円札の肖像画モデルとなっています。

なんと6歳の頃に岩倉具視遣欧使節団に随行しアメリカ留学をしました。最年少の参加でした。

6歳で親元を離れ、まだ遠い異国とされていたアメリカで生活をするなんて驚きですね!

アメリカで10年間、文化や生活様式、社会習慣を学んだ梅子は、日本に帰国するも日本女性のおかれた境遇のヒドさにカルチャーショックを受けてしまいます。

その後、伊藤博文の勧めで再び渡米し生物学を学び、帰国すると「日本婦人米国奨学金」委員会を設立し梅子のあとに続く日本人女性留学者を後押ししました。

女子にも高等教育を受けさせるべく、女子英学塾を設立し、華族や平民など身分関係なく学べる進歩的な教育を推し進めたのです。

高い知性と情熱をもって生徒を導いた女性として語り継がれている人物です。

梅子の生涯には、岩倉具視、伊藤博文など同じお札の肖像画に選ばれた人物とのかかわりが見られましたね。

北里柴三郎(発行:2024年)

世界で初めて破傷風菌の培養に成功し療法を開発した医学者、北里 柴三郎。

ドイツに留学では、コッホに師事し病原微生物研究を共に行いました。

世界ではじめて破傷風菌を増やすことに成功したのもこの頃です。

この功績で世界的に有名になり、欧米機関よりスカウトを受けますが、断り「私立伝染病研究所」を設立するのです。

この研究所の設立に力を貸したのが、現在の1万円札の福沢諭吉です。

その恩返しとして柴三郎も、福沢諭吉が設立した慶應義塾で医学生の指導を行いました。

北里柴三郎も紙幣の肖像画・福沢諭吉と、繋がっていたとは不思議な縁ですね。

樋口一葉(発行:2004年)

明治時代の女流作家で『たけくらべ』の著者でも知られる樋口一葉。

幼少期は優秀な成績をおさめていましたが、父が亡くなったことで生活が困窮し、一葉は家計を支えるため小説家になることを決意します。

文芸雑誌に数々の作品を発表し名声を高め、『たけくらべ』で高い評価を受けました。

しかし、作家人生は短く肺結核のため25歳の若さでこの世を去ってしまうのです。

五千円札でお馴染みの樋口一葉は、短い生涯でも自分の夢を貫き実現させた強い女性だったようです。

野口英世(発行:2004年)

ノーベル賞候補にもなり細菌学者として世界的も知られている野口英世。

赤ん坊の頃に、いろりに落ちてしまい大やけどを負ってしまい指が開かなくなってましたが、手術により回復。

このことがきっかけで、医師を目指すことになりました。

渡米した野口は、毒蛇の研究や、細菌学を学び「梅毒スピロメーター」が世界的に認められノーベル賞候補にもなったのです。

さらにこの頃にアメリカ人の女性と結婚しています。

そして年老いた母の願いで一時は帰国するも、再び渡米し黄熱病の研究に没頭します。

しかし、西アフリカで黄熱病を調べているときに、自身も黄熱病にかかり50代で命を落としてしまうのです。

野口英世さんの顔は知っていても、こんなにも世界を飛び回った医学者だったとは知りませんでした。

紫式部(発行:2000年)

なんといっても『源氏物語』の作者として知られる紫式部。

文才と想像力がある平安時代の女流作家であり中宮彰子に仕えていた頃を記した『式部日記』も有名です。

紙幣でいえば2000年に二千円札の肖像画として採用され、話題にはなったものの日本国民には浸透せず、日銀には在庫の山となっています。

現在は製造中止となっていますが、2019年火事で焼失した首里城の守礼門もデザインされており沖縄県人には馴染みのあるお札となっています。

二千円札は私も持っていますが、お店では出しづらいですよね~若い子は知らなさそうですし(笑)。

記念に持っているという人の方が多いかもですね。

福沢諭吉(発行:1984年)

慶應義塾などを創設し、教育者として知られる福沢諭吉。

貧しい家に育ち苦労して学問にはげみ、アメリカに留学し身分制度のないアメリカ文化に触れます。

自由と平等な西欧諸国の考えに驚き感銘をうけた諭吉は、そこで見聞きしたことを『西洋事情』という本にし発表。

20万部をこえる大ベストセラーとなり、徳川慶喜将軍もお気に入りだったとか。

その後、慶應義塾を作り、有名な『学問のすすめ』を発行するのです。

他にも北里柴三郎の伝染病研究所の設立や朝鮮独立にも力を貸しました。

現在は、一万円紙幣の枚数を言う時に「諭吉さん〇人」という表現をする人がいますよね(笑)。

新渡戸稲造(発行:1984年)

ベストセラー『武士道』の著者でも知られ、国内外の人々に大きな影響を与えた五千円札の肖像画・新渡戸稲造。

アメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ留学し、ドイツ人のメリー・エルキントンと結婚します。

当時は、白人と黄色人種が結婚するなんて「とんでもない!」という時代だったため、彼女の両親や親戚からは大反対されたそうです。

そして産まれた子どもには、友人だった発明家・トーマス・エジソンの名前をもらい遠益(とうます)と名付けたそうですが、残念ながら生後わずかで亡くなったようです。

そんな苦難を乗り越え新渡戸は、世界的なベストセラー『武士道』を執筆し、日本初の農学博士として活躍したのでした。

夏目漱石(発行:1984年)

『坊ちゃん』、『吾輩は猫である』、『こころ』など小学校の国語の授業でもお馴染みの夏目漱石。

東京帝国大学英文科を卒業し、英語教師として松山や熊本に赴任します。

文部省の命令によってイギリスに留学し、帰国後は大学で英文科の講師をしていました。

ですが受け持った講義は学生たちに不評だったようで、漱石は悩んでいたようです。

そして教師を退職し、朝日新聞の専属作家になった漱石は41歳で作家として執筆し始め、数々の作品を世におくりだしました。

伊藤博文(発行:1963年)

近代日本の基礎を作ったとされるのが初代・総理大臣でもある伊藤博文です。

なんと4回も総理大臣を務めた人物でもあります。

吉田松陰が教える松下村塾で学び、兵庫県知事となり木戸孝允と二人三脚で貨幣制度や鉄道の改革を進めていきました。

その後も

■内閣制度の導入
■官僚組織作りで優秀な人材を確保
■大日本帝国憲法のベースを作った

など、日本の近代化をおし勧めた代表的な人物だったのです。

私も子どもながらに、千円札が伊藤博文(茶色っぽいの)から夏目漱石(青色っぽいの)に変わったのを覚えています(笑)。

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岩倉具視(発行:1951年)

倒幕派(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)と天皇(朝廷)を結びつけ明治維新の手助けをした岩倉具視。

公家の家に生まれ、藤原氏に独占されてきた朝廷の役職の打破をめざそうと行動した人物です。

また幕府が要請した日米修好通商条約の勅許を、公卿88人が関白・九条尚忠に押しかけ、朝廷の会議をひっくり返した「廷臣八十八卿列参事件」の首謀者としても知られています。

日米修好通商条約の反対により木戸孝允から信頼されるようになり、明治を代表する政治家となったのです。

高橋是清(発行:1951年)

「日本のケインズ」とも呼ばれることもある高橋 是清(たかはし これきよ)。

14歳のときに藩の命令によりアメリカに留学するも奴隷として売られてしまいます。

本人は奴隷になったことに気づかずキツイ勉強だと思っていたそうですが・・・。とんでもないことですね!

帰国後、英語教師をしながら農商務省に入り日本銀行総裁や総理大臣1回、大蔵大臣は7回もされています。

そして83歳のときに二・二六事件で襲撃され亡くなりました。

日本の「お金」にゆかりのある人物として、お札の肖像画にはピッタリの人物なのです。

板垣退助(発行:1948年)

岐阜で暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残した板垣退助。

板垣退助は、現在の高知県に生まれ、日本で最初の最初の政治結社「愛国公党」を結成、自由民権運動のカリスマ指導者となった人物です。

決まった藩の出身者のみが政治を行うのではなく、「一般の人々の政治に参加すべき」という考えから、国民だれもが平等に政治に参加する自由があるということを広めた人物です。

いまでは当たり前になっている「国民が選挙で選んだ人が政治を行う」という手法は板垣退助のおかげだったのですね。

二宮尊徳(発行:1946年)

二宮 尊徳(にのみや たかのり)と聞いて分からなくても、二宮金次郎とえばピンとくるのではないでしょうか。

一般的には、薪木を背負って歩きながら読書をする銅像が有名ですね。

江戸時代の農民思想家であり、冷害や水害に悩まされていた村人たちを救い、今の農協や漁協などの助け合い精神である“協同組合”の基礎を作った人とも言われています。

ものすごい努力家でもあり、生涯にわたって多くの人を救済し尽くした素晴らしい人物です。

日本武尊(発行:1945年)

ヤマトタケルの名前として知られる日本武尊(やまとたけるのみこと)。

時代としては、聖徳太子が現れる少し前にいたとされる人物ですが、実在したというよりは、各地を納めた大和政権の軍隊の総称であったという説が有力です。

■クマソ征伐(女性に化けて勝利)
■イズモタケル征伐(相手の刀を木刀にすり替え勝利)
■オトタチバナヒメの入水(おとたちばなひめが生贄になってくれ助かる)

など様々な逸話が残されています。

聖徳太子(発行:1930年)

聖徳太子のお札は、記憶にある方もいるのではないでしょうか。

聖徳太子は、中国の文化や制度をお手本に、冠位十二階や十七条憲法を定めたり、天皇中心の国家の礎を築いた飛鳥時代の人物です。

1930年(昭和5年)から累計7回と最も多くお札の肖像に選ばれたため、“お札の人”として日本国民に親しまれていました。

高額紙幣の代名詞として「聖徳太子〇枚分」などと、表現されることもあったそうですよ。

藤原鎌足(発行:1891年)

飛鳥時代に中大兄皇子を助け、藤原氏繁栄の基礎をつくった人物である藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)。

天皇をしのぐほどの力を持ちつつあった蘇我氏に驚異を覚え、中大兄皇子と共に蘇我氏を倒し「大化の改新」と呼ばれる天皇中心の国づくりを行いました。

私が学生のときに、「無事(64)よ、こ(5)の世は、大化の改新」と暗記したのを思いだしました(笑)。

病に伏せるようになった晩年は、天智天皇(中大兄皇子)から、これまでの功績をたたえられ藤原姓を贈られ、中臣鎌足から藤原鎌足になりましたが名前を贈られた翌日に亡くなってしまいました。

中大兄皇子が大胆な改革ができたのは、生涯を支えつつづけた藤原鎌足のおかげだったのですね。

和気清麿呂(発行:1890年)

和気清麻呂(わけの きよまろ)は「皇位を皇族以外の者に継がせてはいけない」という考えから僧侶・道鏡の皇位簒奪を防いだ人物として知られています。

しかし道鏡という人物を報告する際に「無道の人で天皇の血を引かない者は排除すべき」と、称徳天皇にストレートに伝えすぎたため、道教のことを寵愛していた称徳天皇は怒り清麻呂は左遷されてしまうのでした。

その後は復帰し、桓武天皇に仕え長岡京遷都や平安京遷都などで、力を発揮し貢献したそうです。

もし清麻呂がいなければ、純粋な天皇の血が途絶えてしまっていたかもしれないですね。

武内宿禰(発行:1889年)

1889年のお札の人物は、武内宿禰(たけしうちのすくね)です。

恥ずかしながら、私は一度も名前を聞いたことのない人物ですが、景行・成務・仲哀・応神・仁徳のという5人の天皇に仕えたという凄い人。

初代のお札のモデル神功皇后を支えた功労者として「古事記」にも記されていますが、実在したか定かではない人物です。

お札に採用された期間は128年間と歴代最長を誇ります。

菅原道真(発行:1888年)

「学問の神様」として知られる菅原道真は、全国で11000社以上で祀られているなど私たちにとって馴染みのある人物ですね。

でも明確に「何をした人か」と答えられる人は、少ないのではないでしょうか。

59代の天皇・宇多天皇に見込まれ右大臣にまで登りつめるも、左大臣・藤原時平に讒訴され(告げ口されハメられた)大宰府に左遷され、無念にも亡くなってしまった政治家です。

その頭の良さから幼少期には「神童」と呼ばれ、学問の最高位である「文章博士」となりました。

そんなキレッキレッの頭脳や政治的手腕に嫉妬するものも多く、それが災いして失脚してしまいました。

いつの時代も、妬み嫉みはあるんですね・・・。

神功皇后(発行:1881年)

第14代天皇・仲哀天皇の皇后である神功皇后(じんぐうこうごう)。

初代のお札の人物が女性だったとは意外でしたね。

神功皇后は、妊娠中に夫である仲哀天皇が亡くなってしまい、腹帯を巻き男装をして戦地に赴きみごと勝利したという話や、子供の応神天皇が、産まれてすぐに歩くことができたいう逸話から、「安産の神様」、「子安の神様」としても知られています。

日本書紀では、“おきながたらしひめのみこと”の名前で登場しますが、実在したかという点では不明な部分も多い人物です。

最後に

お札の人物ということで顔は知っているものの、実際に何をしてきた人物かを知ることにより、紙幣がもっと身近なものに感じますね!

2024年には20年ぶりにお札のデザインが一新されます。

この機会に紙幣の人物について皆さんにも興味を持って頂けたら幸いです。

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